妙昌寺について

寶物のご紹介

傳存 寶物一覧

Tresures

ここでは主な寶物をご紹介します。
その他寶物は随時更新致します。

日蓮大聖人大曼荼羅御本尊

文永十一年十二月(一二七四年) 本紙紙本 丈八一糎 幅三七糎 三枚綴り

日蓮大聖人大曼荼羅御本尊

弘安二年七月(一二七九年) 本紙紙本 丈五〇糎 幅三三糎

日蓮大聖人揮毫と断定されている大曼荼羅御本尊は、現在確認されているものだけで百三十幅程現存しております。当山に伝わる二幅の御本尊はそれ以外のものとなりますが、文永十一年の御本尊は本紙の料紙が三枚綴り仕立てとなっております。当時の日蓮大聖人が使用されていた料紙の大きさは五〇糎前後×三〇数糎程でしたので、それ以上の大きさの御本尊を揮毫される場合には、料紙を複数枚を張り合わせて使用されていました。また弘安二年の御本尊は料紙一枚仕立てで、脇書には授与された名前として優婆塞○○と書かれています。因みに、大聖人の檀那等で、この○○の名前に該当する人物としては二名確認できますが、私見では身延の南部六郎実長公有縁の人物ではないかと推測しております。  

龍華樹院日像聖人大曼荼羅御本尊

建武二年二月(一三三五年) 本紙紙本 丈四七糎 幅一八糎 二枚綴り

龍華樹院日像聖人大曼荼羅御本尊

建武二年九月(一三三五年) 本紙紙本 丈四〇糎 幅二二糎

下総国(千葉県)で生を受けた日像聖人は、建治元年、七歳で直弟子六老僧のお一人、日朗聖人のお弟子さんとなり名を経一麿と改めました。日蓮大聖人からは孫弟子となります。弘安五年十月、池上の地で御入滅に臨まれた日蓮大聖人は、十二歳になった経一麿(後の日像聖人)を枕元に呼び、帝都開教を遺嘱されます。時移り、二十五歳となられた日像聖人は大聖人の遺命を実現すべく京都に入られます。洛中において日夜折伏教化に精進された結果、町衆の商工業者層を始めとして、多くの町衆がお題目に帰依することとなりました。しかしこのことは比叡山や諸宗の恨みを買い、結果、妨害迫害を受けることとなり、日像聖人は三度の京都追放の難に遭われております。建武元年、ついに一宗弘通の公許(後醍醐天皇の許し)を得た日像聖人は、お題目を正式に弘めることを許され、布教拠点であった妙顕寺は教団最初の勅願寺となりました。さて、当山に伝存の日像聖人御本尊二幅ですが、ともに公許翌年の建武二年に認められたもので、二枚綴りの御本尊の脇書には朝廷の女官に授与されていたりと、当時の日像聖人を取り巻く人々も垣間見え興味深いところでもあります。

久遠成院日親上人大曼荼羅御本尊

文明十五年八月(一四八三年) 本紙紙本 丈五一糎 幅三三糎

室町時代、上総国(千葉県)の人。中山法華経寺に縁を結んだ日親上人は、永亨五年に九州総導師職に就くや肥前国の光勝寺に赴きます。しかし、日親上人の厳格な折伏主義の布教方針は信徒獲得の一方で、当時他宗に寛容だった領主千葉氏や法華経寺(本妙寺・法花寺)貫首の怒りを買い、日親上人は破門されてしまいます。永享九年、京都に本法寺を建立した日親上人は諸国への伝道を更に展開され、一方では将軍足利義教に対する諌暁書「立正治国論」を撰しますが、これが露見し逮捕されます。獄中では舌先を切り取られたり、焼けた鍋を頭に被せられるなどの拷問(鍋かぶり日親上人の異名はここから)を受けるも、嘉吉元年、義教が殺害されると程無く赦免となり、再び本法寺を再建します。寛正元年、他宗への厳しい攻撃から再度お寺は破壊され上人も投獄されますが、翌年赦免とともに三度本法寺を建立、ここを拠点として厳格な信仰は更につらぬかれました。ここに紹介する日親上人の御本尊は晩年の文明十五年に認められたもので、個人に与えられた御本尊としては本紙の大きさもあり、しっかりとしたものです。

實成院日典上人大曼荼羅御本尊

天正十三年(一五八六年) 本紙紙本 丈三十糎 幅十一糎

實成院日典上人は備前の生まれ。直江兼続の帰依を受け佐渡根本寺を再興、後に池上本門寺住職を経て、永禄九年京都妙覚寺第十八世の座につかれます。日蓮宗不受不施の派祖、佛性院日奥上人は日典上人の弟子で、天正二十年に日典上人が遷化されると、日奥上人が妙覚寺第十九世を継承されます。ちなみに、日典上人の時代は、不受不施派と受不施派の対立はまだ顕在化しておりませんでしたが、後の双方の対立を見通されていたようで、日典上人の遺志は弟子たる日奥上人のその後の行動に多大なる影響を与えていったことと思います。ところで、この時代といえば、織田信長が明智光秀に打ち取られた本能寺の変(天正十年六月二日)が余りにも有名ですが、実は信長が京都上洛の際、定宿として頻繁に使用していたのは本能寺ではなく、上洛二十数回の内、十八回は妙覚寺に宿泊していたといわれておりますので、定宿は妙覚寺だったということになります。実際、本能寺の変の時も、妙覚寺には信長の嫡男信忠が宿泊しており、謀反の知らせを受けた信忠は、近くのより構えが堅固な二条御所に移り立て籠もりましたが、こちらも多勢に無勢明智軍に打ち取られてしまいました。ここに掲載のご本尊は、本能寺の変から数年後に認められたものですが、戦乱の時代、妙覚寺住職だった日典上人は、織田信長は勿論のこと、明智光秀や羽柴秀吉を始めとして、多くの武将たちと接しておられたと考えますと、歴史の中の名立たる武将たちも、より身近に捉えることができるかと思います。

佛性院日奥上人大曼荼羅御本尊

元和五年十二月(一六一九年) 本紙紙本 丈三四糎 幅一二糎

日蓮宗不受不施派の祖。佛性院日奥上人は永禄八年京都で豪商の子として生まれ、十二歳で妙覚寺で出家、勉学に励まれます。文禄元年、二十八歳の若さで妙覚寺十九世を襲職されるも、文禄四年、豊臣秀吉が営む方広寺大仏殿千僧供養出仕要請に、不受不施の立場から「国主の命といえども出仕し供養を受けることはできない」と、国主は例外とする日蓮宗の受不施派と対立が生じました。日奥上人の厳格なる主張はその後も続き、慶長四年には徳川家康による大阪城中での対論にまで発展しますが、なお主張を貫き通したため、翌年家康の直裁で対馬流罪となります。日奥上人は在島十一年半程で赦免になりましたが、上人の主張に賛同する勢力の拡大を憂慮した受不施派が再度訴え、寛永七年、後に身池対論と呼ばれる対論を江戸城中で実施しました。幕府の裁決は不受不施派に対し厳しい弾圧をもって臨むこととなり、指導者として大きな影響力をもたらした日奥上人は死後にもかかわらず、再度対馬に流罪とする極めて厳しい裁断が下されました。さて、当山に伝わる御本尊ですが、元号脇書からすると、おそらく日奥上人が備前に赴いていた時に、ごく一般の町衆に与えられたもののようです。

常楽院日經上人大曼荼羅御本尊

元和二年三月(一六一六年) 本紙紙本 丈四八糎 幅三五糎

常楽院日經上人は永禄三年上総国(千葉県)に生まれ、豊かな奇知と爽やかな弁舌の折伏布教で他宗を改宗させ、各地に名を轟かせ、五十余ヵ寺を開創されております。上人は法華宗日什門流の流れを汲み、京都妙満寺二十七世を継承され、対馬に流罪中だった日奥上人の赦免運動にも努めていました。ところが、慶長十二年九月、尾張国(愛知県)熱田で、法論相手の浄土宗の僧が日経上人の詰問状の内容を増上寺を通して徳川家康に上訴、これにより日經上人は慶長十三年十一月、江戸城において浄土宗と法論することになります(慶長法論)。対決当日、予定時間を過ぎて登城した日經上人は、なんと弟子五人が担ぐ戸板に乗せられており、とても法論のできる状態ではありません。これは、この日の午前中、多数の暴徒が上人を襲い、瀕死の重傷を負わせたことが原因でした。しかし、城内での法論は予定通り行われ、日經上人は悶絶状態で一言も発せないまま、裁定は一方的に浄土宗の勝利と決したのです。翌年の慶長十四年二月、日經上人他五人の弟子は洛中引き回しの上、鴨川六条河原の刑場で耳鼻削ぎの刑に処され追放されます(弟子一名は落命)。その後各地を転々とされた上人は慶長十八年に加賀国金沢へ赴き、元和元年には現富山市婦中町に庵を設け布教活動を続けられ、その後同地で遷化されています。ここに掲載の御本尊は、庵を結んだ翌年に認められたもので、御本尊からは晩年に至っても尚不受不施義を貫ぬかれた日經上人の不屈の姿が伝わってきます。

釈迦涅槃図

江戸前期~中期 本紙紙本 丈一八〇糎 幅一三四糎 三枚綴

涅槃図とは釈尊(お釈迦様)が御入滅(亡くなられた)時の情景を描いたもので、日本で一番古いとされている涅槃図は、十一世紀後半のものが現存しています。因みに、当山に伝わる額装仕立て釈迦涅槃図は一部本金を使用するなど、顔料もそれなりに吟味されたものを使用し、十大弟子から動物や昆虫に至るまで、多くの登場人物等も詳細に描かれております(本堂内掲示)。          

題目宝塔絵曼荼羅

元禄三年(一六九〇年) 本紙紙本 丈九二糎 幅三五糎

元禄三年に認められた宝塔絵曼荼羅です。三重の宝塔全体はお題目、「南無妙法蓮華経」で描かれており、宝塔上段には一塔両尊、中段には日蓮大聖人等が鎮座し、紙面上段には法華経二十八品、四方に四天王とお題目、下段には地神水神、三十番神が勧請されるなど、紙面全体細やかに描かれています。       

宝塔三十番神絵図

江戸中期~後期 本紙紙本 丈一〇七糎 幅五二糎

三十番神信仰は伝教大師が比叡山に祀ったのが最初といわれ、鎌倉時代には盛んに信仰され、日蓮宗では帝都弘通の日像聖人が、法華経守護国土の諸天善神として取り入れ、全国に拡がっていきました。当山の三十番神絵図は上段中央に一遍首題、左右に日天月天を配し、その下段に三十番神が描かれております。

四天王鬼子母神降臨清正公出陣絵図

江戸後期 本紙絹本 丈六六糎 幅二一糎

加藤清正(清正公)出陣の絵図です。上段には出陣の清正公を守護するため、降臨された鬼子母神(中央)、四天王(左右)が描かれており、清正公の出陣図としては大変珍しい描写で細密に描かれております。

鬼形子安鬼子母神立像

江戸中期~後期 玉眼漆黒寄木造 丈八九糎 幅四五糎 奥行三五糎 含台座 

法華経の守護神として、日蓮大聖人が諸天善神の中でも重視されていたのが十羅刹女と鬼子母神です。ここに紹介する鬼形子安鬼子母神は、当山に伝わる鬼子母神像の中でも一番大きな像で、全身は漆黒玉眼、口は耳まで裂け角を有し、右手に吉祥果(柘榴)を持ち左手で子供を抱く、有角抱児憤怒形の立像で、稀有な立像形式の鬼子母神です。当山のこの鬼子母神は憤怒のとても怖いお顔をされていますが、それは子供を始めとして、法華経の信仰者を守るため、外敵に向けた憤怒のお顔だと捉えていただければと思います。霊験あらたかな当山の鬼子母神、江戸時代の大磯宿場絵図には、妙昌寺境内に既に鬼子母神堂が描かれておりますので、おそらくこの鬼子母神像が安置されていたのだろうと想像するところであります。  

八臂弁財天座像

明和元年 玉眼彩色寄木造 丈六〇糎 幅四二糎 奥行三二糎 含台座

弁財天は印度の河女神がルーツで、日本に入り仏教に取り込まれると天部に属した守護神として、音楽、弁舌、財富、知恵、延寿などを司る女神として日本的な変容を遂げてきました。因みに、当山の弁財天は腕が八本有る八臂弁財天で、闘いの女神として、また福徳、財宝を授ける神として信仰されております。

三宝尊(厨子入り念持仏)

寛文四年(一六六四年) 二十五体仏 丈三一糎 幅二八糎 奥行二一糎

三宝尊(厨子入り念持仏)

寛文八年七月(一六六八年) 十七体仏 丈五七糎 幅五一糎 奥行四〇糎

共に寛文年間の作、厨子入りの仏像形式曼荼羅本尊で、裕福な武家や商家等が所有していたと思われる作りの良い念持仏です。一部欠損もありますが、小さな仏像の集合体と三百五十年余の時間経過を考慮すれば、保存状態は良好と思います。とかく大きな仏像は分かりやすく目を引きますが、実は念持仏のように小さな仏像製作こそ、仏師本来の技量が試される題材かもしれません。

徳叉迦龍王

室町~江戸前期 一木造立像 丈九二糎 幅三五糎 奥行二一糎

欅材一木造立像です。枯れ具合から室町時代から江戸前期ぐらいの作かと推測されます。法華経序品第一に登場する八大龍王の一龍王たる徳叉迦龍王ですが、身延鏡や金光明経によると、七面天女は徳叉迦龍王の娘と伝えられています。仏法を守護する龍王ですが、徳叉迦龍王が怒り凝視した時、視毒によりその相手は落命するともいわれております。

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